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4: イエス・キリストの十字架とは

十字架の形はアクセサリーなどあらゆるところで目にするキリスト教のシンボルです。それは一般的に神様の愛と聖さを象徴する美しい物としてとらえられています。一人の男性が十字架にかかっているデザインを目にしますが、それはイエス・キリストと呼ばれる歴史上実際に存在した方です。十字架だけのもの、また、イエスがかかっている十字架の両方とも、クリスチャンの象徴として知られています。教会では十字架があることが自然ですが、なぜ十字架はクリスチャンにとって重要なのでしょう。この起源はイエスが十字架にかけられた時代よりもはるか以前にさかのぼり、アダムとエバが犯した罪と、その罪の問題を解決する神様からのご計画から始まりました。

神様の約束

アダムとエバの堕落の結果である人類の罪の性質は、神様と私たちとの関係の壁となりました。聖なる性質を持つ神様は、たとえ神様ご自身が人間と関係を持つことを望んでいても、堕落した罪ある人間と一緒にいることはできません。それでも神様は、私たち人間への愛をあきらめませんでした。罪を犯したアダムとエバとの関係を断絶された直後、神様は「救い主」と呼ばれる方によって、神様と人間の関係を修復されると約束されました。

救い主に関する預言

アダムとエバの子孫が世界中に増え広がる歴史の中で、神様は特別に選んだ人々を通して、神様と人間の関係を修復するという約束を思い起こさせました。これらの人々は単に超自然的な推測をしたわけではなく、将来に現れる「救い主」に関するメッセージを神様から託された、「預言者」と呼ばれた人達でした。神様は救い主に関する情報を長年かけて預言者たちを通して教えて下さいました。その記録が聖書に集められており、そこには救い主に関しての預言が350以上記されてあります。

その代表的な預言として、以下のようなものがあります。

預言の内容キリストが生まれる前キリストにより成就された実際の出来事
救い主は、神の子であるゼカリヤ 12:10、詩篇2:7マタイ3:16-17、へブル 1:2-3
救い主は、処女によって生まれるイザヤ 7:14ルカ 1:26-31
ベツレヘムの地で生まれるミカ 5:2マタイ 2:4-6
救い主は、罪のゆるしのための供え物となるイザヤ 52:15、イザヤ 53:5–12、 詩篇40:6−8、マラキ 3:3 へブル 9:12
救い主は、木にかけられて死なれる申命記21章22-23節第一ペテロ 2:24、 ガラテヤ 3:13
救い主は、死からよみがえる詩篇16使徒の働き 13:33-35

これらの預言が記録された時期は、救い主が誕生する数百年前から千年以上も前にのぼります。預言には救い主が誕生する場所、時

代、家系、生き方、死に方などが記されていますが、その預言に当てはまるのは、全ての人類の歴史の中でただ一人、イエス・キリストというお方でした。

十字架の意味

では、このイエス・キリストは、なぜ十字架で死ななければいけなかったのでしょうか。その答えは「救い主は、罪のゆるしのための供え物となる」という預言の中にあります。

人類は堕落から今に至るまで、自分の罪を拭う方法として供え物や清めの洗い、善意的行為、修行、ざんげや念仏など多くのことを試してきました。しかし罪の性質を持って生まれてきた人間が、その性質を自力で取り除くことはできません。ましてや創造された時の神様との信頼関係を自分の力で回復することなど不可能です。何を捧げても、例え最善の行いが人間の目に認められても、それらは完全に聖い神様の前では罪のつぐないとして全く不十分なのです。

堕落の状態にいる私たちに最も必要なものは、神様の目に受け入れられる完全な供え物を捧げてくださるお方です。それは、私たちのように罪の性質がある者ではなく、完璧に聖い人間ではなければなりません。神様はそのようなことができる人間はこの世に誰一人いないとわかっておられました。それゆえ、神様はご自分の愛する子をこの世へ送ってくださいました。その方がイエス・キリストです。イエスは人間として生まれ、完全に聖い生き方をされ、全人類の罪のゆるしのために、私たちの代わりに聖なる捧げ物としてご自分のいのちを差し出したのです。

「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のためのなだめのささげ物です。」

(第一ヨハネの手紙2章2節)

イエス・キリストの十字架の死によって、罪と恥の問題はなくなりました。神様と人類を引き離していた罪の問題は、神ご自身によって解決されました。ここに、神様がどれほど私たちを愛しており、私たちとの親密な関係を望んでおられるかを知ることができます。なぜなら、私たちが神様と元通りの信頼関係を結ぶために、神様ご自身のひとり子さえも惜しまず、十字架の死に渡されたからです。そのように私たちに対する愛を十字架において示されたのです。

「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子と共にすべてのものを、
私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」

(ローマ人への手紙8章32節)

罪の性質をもっている私たちを救うために、罪のないイエスはいのちを捨ててくださいました。しかし、私たちはこのような重い犠牲を伴う救いを受け入れることを躊躇します。なぜイエス・キリストはあのような残酷な十字架の刑で死ななければならなかったのでしょうか。他に方法はなかったのでしょうか。

このことを理解するために、日本の習慣を例にとってみましょう。日本人は食事の前に、その食物に対して「いただきます」と言います。食料はあらゆる植物や動物の命を絶つことから成り、それらの命によって私たちは飢え死にすることから救われるのです。食物の命を受けとるからこそ、私たちは生きることができるので「いただきます(上の位置からのものを頂戴する、受け取るという意味)」と言います。この日本の慣習と聖書が語っている犠牲の必要性との間には共通点があります。それは、もしイエスが死ななければ、私たちには新しい命がないという聖書の教えです。食物になる命が絶たれるのは悲しいことですが、私たちに生きる力を与えてくれる美味しいごはんを楽しむように、イエスが十字架でしなれたことは悲しいですが、そのことによって神様と私たちの間にあった隔たりは取り除かれ、神様との死んでいた関係が戻り、本当の意味で生きる喜びを味わうことができるのです。

「アダムにあってすべての人が死んでいるように、
キリストにあってすべての人が生かされるのです。」

(第一コリント人への手紙15章22節)

処刑の道具であった十字架は、美しさを表すものとなりました。かつては罪の結果である「死」を表すものでしたが、今ではイエス・キリストが成し遂げられた業の結果、「いのち」を意味するものとなったのです。この「いのち」とは、アダムとエバがこの世にもたらした神様との関係においての「死」からの回復です。

では、どのようにして私たちはそのような「いのち」を頂くことができるのでしょうか。次回の「5.救いとは」でそのことを学んでいきます。

この章の内容についてさらに学ばれたい方は、後部付録 4. イエス・キリストの十字架とは?をご覧ください。

後部付録4. イエスの十字架とは

イエスの十字架のことを深く聖書で学ぶとき、それは神様のひとり子が人間の罪の為に身代わりで死んで下さるという、世界のどの宗教にも見られない出来事であることがわかります。イエスの十字架は、聖い神様の罪に対する正しい怒りと、私たち人間に対する深い愛が激突した場所であると言われています。十字架が神様の私たちに対する愛の現れであるとするのなら、その愛とはどのようなものであるかを知る必要があります。

愛の意味

聖書を見ると、「愛」はギリシャ語でフィリアとアガペーが用いられていますが、ギリシャ文化では4つの言葉があります。

  1. エロス (Eros ) – ロマンスの愛、夫婦間の愛
  2. ストルゲ (Storge ) 家族間の愛
  3. フィリア (Philia ) –  友人間の愛
  4. アガペー (Agape ) – 無条件の愛、神の私たちへの愛

日本では何かを頂くと、お礼をお返しすることが礼儀とされます。ですから、お礼が戻ることを期待しながら何かを提供したり、逆にお礼を負担させないように提供を差し控えたりする場合もあります。このように、お互いの見返りを気にするため、与えられた価値のほんの一部も返すことができないような偉大なものを受け取ることを躊躇してしまうのです。

十字架上でイエスが示してくださった偉大な愛は、アガペーの愛です。これは 無条件の愛で、見返りを全く期待せずに与えられるものです。神様は何の見返りも必要とせずに私たちを愛してくださるのです。なぜならば『神は愛』(ヨハネ第一 4:16)だからです。そのような素晴らしい神様の愛を知るときに、私たちはそれを躊躇せずに受け取ることが大切です。神様は私たちからのお返しを全く要求していません。心が罪に満ちて神様から離れていた時にも私たちを愛し続け、私たちが負いきれない罰をイエスが代わりに受けてくださった程の偉大な愛は無償で与えられます。私たちはそれに対して「お返し」はできませんが、この素晴らしい愛を感謝して受け取ることはできます。

預言/預言者

聖書でいう「よげん」とは、【預言】と書きます。預言とは「預(あず)かった言葉」という意味で、神様独自の言葉を託されることです。ですから、聖書の中で「預言者」と呼ばれる人たちは、神様からの直接のメッセージを人々に伝える人たちのことを指します。一般の予言とは、「予め言っておく」ことを意味し、占いなども含め、前もって未来に起こる出来事を予告し言い当てることであり、聖書の神様の意図的な【預言】とは異なります。

イエスについての預言

聖書の主人公はイエスと呼ばれるキリスト(救い主という意味)です。イエスの出現は旧約聖書(聖書の前半39巻)において、イエスが生まれる千年以上も前から繰り返し預言されていました。その預言が実際にイエスの生涯において成就したことにより、イエスこそが神様がご計画された救い主であると、現代の私たちが理解できるようになりました。旧約聖書はイエスが生まれる前の約1500年間にわたって書かれましたが、その中に含まれる預言は、長い歴史のなかでイエスが将来もたらす救いの希望を年月をかけて明らかにしていきました。

旧約聖書には350を超えるイエス・キリストに関しての預言があります。その中にはイエスの誕生の時期と場所、彼の生まれ様、生き様、活動の内容、死に様とその意味、死からのよみがえりなどが含まれています。1947年に最初に発見された死海文書(死海近辺で発掘された古代に存在していた聖書の一部分)は、現在の旧約聖書と一致していることがわかり、聖書は後の時代に書き足された書物では無かったことが判明しました。これらの史的価値のある古文書は、イエスの誕生の数世紀前に隠された後、20世紀まで現れませんでした。そういう意味でも発見された死海文書は、旧約聖書の正確さとイエス・キリストの正体を証明するタイムカプセルとも言えるでしょう。

イエス・キリストによって成就された「救い主」についての重要な預言とその成就した内容をさらに詳しく学ぶ際には下記を参考にしてください。

預言の内容旧約聖書預言の内容
救い主がイスラエル民族の父であるアブラハムの子孫として来る創世記 22:18ローマ 9:5
救い主はユダヤ人部族の「ユダ族」からでる創世記  49:10ヘブル7:14
救い主はダビデの血統から生まれ王となるイザヤ 9:7ルカ1:32
救い主はダビデの町ベツレヘムで誕生する。(「ベツレヘム」は「パンの家」という意味でイエスは自分のことを「いのちのパン」と呼ばれている。ヨハネ6:35)ミカ 5:2ルカ 2:4-6
救い主は処女から誕生するイザヤ 7:14ルカ1:26-31
救い主はユダヤ人として生まれるが、全ての民の救 い主となる創世記 28:14マタイ12:15–21
救い主は暗闇に光りを照らし、失われた人々へ神の救いの計画を明らかにするイザヤ 9:1-2マタイ4:13-16
救い主は奇跡を通して生と死に対する力を表すイザヤ 35:5-6、53:5マタイ 11:2-6
救い主は無実であるにもかかわらず罪人として罰せられ、抵抗することなく黙って死の刑罰を受けるイザヤ 53:7マルコ 15:4-5
救い主は自分の命をささげるイザヤ 53:11-12マルコ15:27-28
救い主の死は、私たちの罪のあがないのために犠牲とされた神の愛イザヤ 53: 5-6ローマ 5:6-8

イエスの復活

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示す通りに三日目によみがえられたこと、」

(第一コリント15章:3~4節)

預言の中には救い主のよみがえり(復活)も含まれており、これもイエス・キリストによって成就しました。イエスは十字架の上で私たちの罪の供え物となり、神様の罪に対する怒りをなだめてくださいました。「罪の報酬は死である」という聖書にある神様の言葉は、生まれながら罪の性質をもっている人間すべてが死ななければならないことを示しています。しかし、罪なきイエスは私たちの罪を負い、その刑罰を受けて死んで下さいました。それにより、神様の罪に対する怒りはおさまり、残るは神様の私たちに対する愛のみでした。神様はイエスを墓の中に閉じ込めておかず、3日後に死の力を打ち破ってよみがえらせることで、アダムとエバの罪のゆえに入ってきた死を無効とし、この世の人生と永遠まで神様と共に過ごすための新しい命を私たちの為に用意してくださったのです。