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3: 罪とは

「罪人」とは

日本語で「罪」と聞くと、法律に反する犯罪を思い起こします。けれども、罪という言葉を理解するには犯罪の種類や度合いではなく、法が破られたという事自体に注目する必要があります。世の中には様々な決まり事があり、全ての国は、独自の法律を持っています。国々で共通する法律も見られるでしょう。例えば、「盗んではいけない。」というのはどこにでも共通する法律です。あるいは、シンガポールではガムの販売は違法だという独特な決まり事があります。法律とは、それぞれの社会に要求されている基準ですが、人間社会の法律の他にも自然界の秩序(例:種が成長するには、水や栄養が必要など)や化学反応の法則もあります。神様の「法律」とは人間の作り上げた法律よりも自然界の法則と似ています。

つまり神様の完全な義と神聖さは、それ自体が神様の法則なのです。神様はご自身の聖なるご性質に反することはできません。神様は何でもできるお方ですが、一つだけできないことがあるならば、それは罪をおかすことです。それが例え小さな嘘であったとしても、嘘をついた時点で神様は「聖なる」存在ではなくなるからです。

法律がその国民の安全を守るためにあるように、完全な義である神様は、人間が神様の目的にそった最高の人生を生きるために、神様の法則を与えました。しかしアダムとエバの堕落により、全ての人

間が罪の性質をもって生まれてくるようになったのです。この罪の性質は、人間が罪を犯す原因となり、心の中にある不純な思いから犯罪に至るまで、ありとあらゆる罪をすべての人間は犯してしまう様になりました。私たちは誰一人として神様の聖い基準に完全にしたがうことはできません。そして神様の法則を犯す人間はすべて、神様との関係をもつことができない、遠く離れた所にいるのです。

「すべての人は罪を犯したので、
神からの栄誉を受ける事ができず、。。。」

(ローマ書3章23節)

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。
神を求める人はいない。すべての人が迷 いでて、みな、
ともに無益な者となった。善を行う者はひとりもいない。」

(ローマ書3章10−12節)

人間は本来なら神様を心から愛し、近く親しい関係にあるべき存在なのですが、今の世界は神様との関係が完全に断ち切られている状態です。罪とは聖い神様から離れている状態から来るものであり、それは神様はいないと否定することも、または自分には関係ないと無関心になることも、さらには神様を認めても必要としないプライドも含まれます。それどころか自分には罪がないと思って生きています。それが「罪人」なのです。

罪への自覚とは

自分は罪人ではない、と思いたい私たちですが、それでも人間には心の奥底で自分の罪に対しての自覚があることに気が付きます。神様は人間をご自分に似せてお創りになり、人間の理性の中に神様の聖さが反映される「良心」というものをお与えになりました。人間はそれによって善悪の判断をすることができます。ですから、もし何か悪いことをするなら、その良心ゆえ、あの行いは間違いだったと自然に思えることもあります。また、聖書の教えも含め、法律やその他の決まり事によって、善悪の基準を知ることができます。自分が何か悪いことをした時、善に反することをしたと自覚できます。罪に対しての自覚があるということは、完全な義である神様が存在することを心のどこかで意識していいるということです。

人類は古代から、「人間と自然はもともと清いものなのか、それとも邪悪なのか?」という問題に向き合ってきましたが、その問いに答えるのが難しいことがわかります。私たちは人々の内に善を見ることもありますが、人間と自然の両方に痛みと困難をもたらす悪の要素があることも体験から知っているからす。「2. 人間とは」で学んだように、その答えは両方にあるとわかります。人間も自然も聖なる目的をもって創造されましたが、堕落した状態によって入り込んだ悪はその目的を台無しにしました。 そのため、私たちはその聖なる性質を回復する道を探す必要があります。

日本の宗教は人間の本性は清いという「性善説」に基づいている部分があるために、御祓い(おはらい)や水で洗う儀式によって外側を清める習慣があります。しかし、もしそれらの儀式で私たちが一時的に清くされたとしても、その後に再び戻る悪意や欲、自己中心の考え、嘘や妬みのような誰にも見られない、誰も知らない隠された罪をどうしたらよいのでしょうか。外側からは清く見えても、私たちの心の奥底までご存知の神様の前には、人間が考え出す「清め」は全く不十分なのです。

うそをついたり、自己中心的な考えをしたり、誰かをねたんだりしたことのない人はいるでしょうか?また、罪とは悪い行いや考えだけのものではありません。良いこと、正しいこと、するべきことがわかっていながら、それらをしないことも罪です。例えば、助けることができるのに、他者の必要を無視することなどです。 私たちは、他者から自分の罪を隠そうとし、隠れていれさえすれば、神様もそれを知ることもないと考えがちです。けれでも、神様は全てを知っておられます。

罪の自覚は、自分がいかに罪に対して弱いものであるかを思い起こさせる苦いものです。しかし聖書の中に、これらの問題を解決する希望を見つけることができます。驚くべきことに、罪の問題への解決は、善人や聖人になるために努力をすることではありません。そうではなく、まずは自分の力で罪を取り除くことはできないという事実を受けれることに始まります。

次に続く「4. キリストの十字架とは」と「5. 救いとは」では、神様が持っておられる罪の解決について学びます。自分自身について探求するために、心をオープンにして学んでいきましょう。

この章の内容についてさらに学ばれたい方は、後部付録 3. 罪とは?をご覧ください。

後部付録3. 罪とは

「罪」と「犯罪」

「罪」と聞くと、たいていの場合は刑法上に関わる悪い行いを思い浮かべます。けれども、「罪」の概念を理解するには、その意味を考える必要があります。「犯罪」というのは、泥棒、詐欺、殺人、など法律に関わる罪の「行い」を示すもので、「罪」の一部です。聖書でいう「罪」とは、犯罪のような行いに関することだけではありません。「罪」について考えるとき、悪い行いだけを指すなら、それは不十分な定義なのです。

聖書でいわれる「罪」とは、人間の「性質」を指すものです。それは、創造主との関係が壊れている状態を指します。この世を造られ、完全な秩序を持たれている神様との関係がないのなら、神様がもともと意図されていた完全な正しさや聖さから外れた状態にいます。そのような状態を「罪の中にいる」と表現することもできます。下記で触れますが、「罪」という言葉の語源には、「的はずれ」という意味があります。創造主なる神様から離れ、また神様の絶対的な正しさの基準-的ーから外れている状態を「罪」と呼びます。悪い行いももちろん罪の中に含まれますが、人間には罪という性質があるため、罪深い行動をして当然なのです。その人間の罪深い性質のため、神様の意図された良いものの代わりに、世界はありとあらゆる罪であふれています。

罪 – 的外れ

日本人は、「人間は全て罪人である」という聖書の教えに不快感を抱くことがあります。それは、大半の人が法律に反した悪いことをしていないのに全員を犯罪者呼ばわりするのはおかしいと思うからです。ところが、そう思う人達でも、完璧な人間は存在せず誰もが間違いを犯すということは認めます。ただその「間違い」というのもが「罪」であるとは納得できないのです。

聖書で使われている「罪」という言葉の意味をよりよく理解するために、聖書の原語の一つであるヘブル語を見てみましょう。

「罪」はヘブル語では「チャタ」という言葉が使われており、「的はずれ」という意味があります。弓矢が的を外れた部分に当たるように、私たち人間も神の基準からはずれた状態にいるということです。弓矢が髪の毛一本分でも的から外れているなら、それは「チャタ」という状態なのです。ちいさな間違いも、おおきな犯罪も全て「チャタ」なので、たとえ人間社会の基準では善人に見られても、アダムとエバの子孫である限り、神様の完全な正しい状態である「的」から外れている罪人なのです。