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5: 救いとは

創造主の目的

私たちはは幸運を得るために寺や神社で願い事をしたり、山や岩や木などの神霊に頼ったり、占いを信じたりします。神々のために寺や神社を建て、あたかも神々が人間の利得ために造られたかのように、ご利益を期待して超自然的な力を求めます。しかし、造り主とは、造られたものよりも先に存在しているものです。神様についても同じことが言えます。

神様は世の全てのものができる前から存在されていた方で、お寺や神社、人の手で作られた物の中には住んでいません。神様というお方が、私たち一人ひとりに目的を持って創造されたからです。

靴屋は、履き心地が良くておしゃれな靴を作ります。芸術家は、美しさを表現するために芸術作品を作ります。ランプを作る人は、その作品で暗い部屋に光をもたらします。同じように神様は私たちを、具体的な目的にそった、素晴らしいデザインに創造してくださいました。ですから私たちの存在は特別なのです。そして、その目的を知る為には私たちの作り手である神様のもとに帰る必要があります。

神様から離れ、壊れて失われた存在

「救い」の意味を理解するためには、まず「何から救われる必要があるのか」を理解する必要があります。人間が犯した罪の結果は、創造主である神様から私たちが遠く離れた失われた状態になってしまったことです。私たち人間の本質は、かつての「非常に良い」姿が壊れた状態であり、個々に与えられた特別なデザインと目的も理解できなくなっています。どんな人間の最善の努力さえもその欠陥を補うことはできません。自分では変えることのできない、この壊れて失われた状態から私たちは救われる必要があるのです。

「私たちは皆、羊のように迷っています。」

(イザヤ書53:6)

神様は限りなく聖なるお方であるため、そのご性質に反することは一切されません。神様は、私たちの心の内もご覧になることができますが、私たちの心は罪に満ちています。神様は、汚れた者、正しくない者、不完全な者と一緒にいることはできません。また、罪人である私たちが自分で清くなることも出来ません。そのため、この図のように、私たちは神様から離れている状態なのです。神様が枠の中だとしたら私たちは外にいて、神様の元に行く方法がありません。

神様と再会への道

しかし神様の私たちに対する愛は、想像をはるかに超えたものでした。神様は遠くに離れている私たちを近くに寄せるために、ご自分の愛するひとり子イエス・キリストを手放し、十字架の死という完全な罪のつぐないの捧げ物とされました。私たち罪人が受けるべきであった罰は、もうイエスが受けて下さったので、神様は私たちを「罪人」とみなすことはせず、聖い神様の近くに行けるようにしてくださいました。

このように、私たちが神様のもとに行くための道を神様ご自身が用意してくださいました。それはドアを開けて入って行くようなものです。聖書では、イエス・キリストがご自分を「門」、また「道」である言われた理由でもあるのです。

「わたしは門です。だれでも、
わたしを通って入るなら救われます。」

(ヨハネの福音書10章9節)

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。

わたしを通してでなければ、
だれも父のみもとに行くことはできません。」

(ヨハネの福音書14章6節)

私たちの身代わりとなってくださったイエス・キリストの十字架の業は、父なる神様の前で私たちを永遠に正しいものとして受け入れてくださることができると学びました。この身代わりは、私たちが受け取るか拒むか選ぶことのできる、神様からの無償の贈り物です。「恵み」であるこの贈り物は、あなたの目の前にあり、今受け取ることができるのです。これは、私たちが受ける資格がないにもかかわらず、神様の愛によって私たちに注がれた一方的な神様の恵み、すなわち恩恵なのです。

神様は親切で忍耐強く、人生における様々な状況や経験、そして神様のもとに戻る道のりを見い出させてくれる人々を通して、私たち一人一人を近くに呼んでくださり、この素晴らし救いの「贈り物」を差し出してくださいます。

救いを受け取る

この神様の贈り物を受け取ることを、イエス・キリストを「信じる」、もしくは「信頼する」とも言います。私たちは自分自身が罪人であり、自力で罪のない者になることはできない現実を受け入れなければいけません。自分の努力で良い人間になろうとすることをやめて、私たちが救われるためには、イエス・キリストの身代わりが必要であることを、神様の前に認めなければなりません。

もし私たちが神様からの贈り物である救いを受け取るなら、それはまた、神様と出会うことでもあります。もはや罪のために神様から切り離された状態にいる必要はないのです。それどころか、神様に出会うときに、自分が造られた目的を神様から学ぶことができるのです。これが救いです。

あなたを永遠に変える大切な一歩

イエス・キリストはあなたの救い主です。イエスはあなたを愛しておられるので、あなたを円の外に放っておかれません。イエスはあなたを神様のもとへと招き入れるために、あなたが通る道になってくださったのです。あなたが今できることは、その道を通るために一歩踏み出すことです。

救いの道を踏み出して神様と出会うのならば、あなたには希望と喜びに満ちた人生が待っています。それは、神様ご自身がこれから永遠までも、あなたと共にいてくださる人生です。神様はあなたがこの世に生を受けて生まれる前からも、あなたが気がつかないでいた間も、神様に帰る道をイエスにおいて用意してくださっていたのです。それは、神様がおられる場の外にいた人が、家に戻って来た迷った子供のように歓迎されるようなことです。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。
そうすれば見つかります。たたきなさい。
そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、
捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

(マタイの福音書7章7、8節)

神様を知り、神様との関係を持つことは、すべての人間が創造された目的です。そのような関係があるなら、あなたはより豊かに人生を理解し、困難な時でさえ喜びを経験し、他者を大切にし、喜んで人々に仕えることができるようになります。

「神は言われます。 

「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」

(第2コリント6:2)

神様の救いに対する応答

  1. あなたは世界を創造し、あなた自身もお造りになった神様の存在を信じますか?
  2. あなたは罪人であるため、聖い神様から離れた存在であることを認めますか?
  3. あなたは神様に愛されており、イエスの十字架の死は、あなたを罪から救うためのものであることを信じますか?     
  4. あなたは、この救いを神様からの贈り物として受け取り、神様との信頼関係を持ちたいと思いますか?

上記の問いに「はい」と応答したいと願われるなら、以下の祈りを持って、この学びを閉じましょう。

「私の創造主、父なる神様、今まで私の人生を導いてくれて
ありがとうございます。私の罪をゆるすために
イエス・キリストを送ってくださり、ありがとうございます。
あなたは私を愛しており、あなたが共に歩むように招いて
くださっていると信じ受け入れたいです。
私と共にいて、私の人生を永遠に導いてください。」

もしこの祈りをするように導かれたなら、あなたは今、神様と出会ったのです。あなたは、あなたを愛してやまない神様の近くに引き寄せられました。けれども、神様にとっては新しい出会いではなく、「再会」だったのです。神様の愛によって造られたあなたは、生まれる前からこれまでの歩みも全て神様に知られていたのです。造られた者が、造った方の元へ戻る時、本来意図された生き方をすることができます。今、あなたとの再会を待っていた神様との新しい人生がはじまろうとしているのです。

この章の内容についてさらに学ばれたい方は、後部付録 5. 救いとはをご覧ください。

後部付録5. 救いとは

救いとは「神との平和」と「神にある平安」につながる

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

(ヨハネ14:7)

私たちが救われた時に体験できる平安には2種類あります。

まず、神様と私たちの関係においての「神との平和」です。神様から離れて罪の虜になっているとき、罪を憎む神様と私たちは敵対関係にありました。しかし、イエスの犠牲が、神様の罪に対する怒りをなだめたことで、私たちと神様の間に平和が戻ったのです。つまり罪の問題が取り除かれたことによって、神様との敵対関係が、人間が最初に創造された時にあった「神との平和」に回復したということです。

次の「神にある平安」は、神様がイエスを犠牲にするほどに私たちを愛してくださったという事実を知ることから来る平安です。 今まで知らなかった愛なる神様と出会ったことにより、その愛によって私たちの心から恐れや不安が取り除かれました。 それは全知全能の神様がどんな苦しい時でも私たちを一人にはせず、共にいてくださり導いてくださることを知るからです。神様の愛から来る平安は、私たちだけでなく周りの人までにも影響を及ぼすものです。

救いとは「永遠のいのち」が与えられること

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、
世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして
滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネによる福音書3章16節)

永遠のいのちとは神、神様と終わりなく共に生きることができるという意味です。アダムとイブは、初めは神様と共に永遠に生きるいのちが与えられていました。しかし彼らの罪の結果、人間は肉体の死のあとには滅び(地獄)に至る存在になりました。しかし、イエスが私たちの罪の罰を負ってくださったことにより、滅びではなく、神様と共に生きる場所(天国)で永遠に過ごすいのちが、イエスを信じたときに与えられるのです。

また永遠のいのちとは、救われたことによってエデンの園で完璧であった神様との正しい関係が戻り、今の世でも神様によって満たされ、そして喜びに溢れた人生を神様と共に生きることです。永遠のいのちとは救われた時からの人生が一変するものであると言うこともできます。

救いとは赦されること

日本語では「ゆるす」という漢字は「許す」と「赦す」があります。「許す」の意味は「許可、認める」ですが、「赦す」は「過失や失敗などをとがめない」という意味です。神様は聖いお方ですから、どんなささいな罪も許可しません。しかし、その神様がイエスに免じて私たちの罪をとがめずに、赦してくださると言うのです。

この赦しとは、つぐないや善行、また自分の地位や名誉、道徳的なステータスに影響されるものではありません。神様の赦しは、十字架によるイエスの献身のみに基づいています。イエスはすでに私たちの罪の罰を受けてくださったので、正義で聖なる神様は、イエスを罰することで私たちの罪をとがめないで赦してくださるのです。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが
私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに
対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

(ローマ5章8節)

この聖句に見られるように、神は私たちをゆるすための第一歩を踏み出してくださいました。神は私たちが悔い改めて善を行い、ゆるしを請うようになるまで、待つことはしませんでした。私たちが神の元に帰ろうと考える前に、ゆるしを可能にするための道を用意されたということは、神がいかに私たちをゆるすことについて熱心で真剣であるかを示しています。この学習のいくつかのところで学んだように、私たちの堕落した性質と罪は私たちを神から引き離します。「罪の報酬(結果)は、肉体的にも霊的にも死」(ローマ3:23)ですが、神はだれ一人として死ぬことを望んでいません。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、
その約束のことを遅らせておられるのではありません。
かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに
進むことを望んでおられるのです。」

(第二ペテロ3章9節)

神様は、すべての人々がご自身との再会されることを願われています。ただ私たちの罪を見逃すのではなく、私たちに代わって罪の罰を受けてくださったという神様のゆるしに気づくとき、私たちは主イエスがなさったことがどれほど素晴らしいことなのかを理解することができます。

救いは神様の恵み

「恵み」と翻訳された古代ギリシャ言語は「カリス」という言葉ですが、それには二つの意味があります。まず恵みとは、「親切さ(寛大)」を意味します。これは受ける価値に関係なく与えられる好意と捉えることができます。神様は私たちを救うために神様のひとり子(イエス)をこの世に送り、イエスが私たちのために死んでくださったことによって、神様の愛を示されました。私たちはこの恩恵を得るために何もできません。それは受け取る価値がない者に与えられる神様の一方的なご好意だからです。

第二に、「恵み」とはシンプルに「贈り物」ということができます。神様は私たちに対する好意によって恵みを示してくださいましたが、それはまた御子イエス・キリストという贈り物を私たちに与えてくださったという意味です。神様からの贈り物は無条件です。つまり、私たちの地位や能力には全く関係ありません。イエス・キリストは神様から全世界への贈り物です。

神様の「恵み」は感謝をもたらします。イエス・キリストという贈り物の素晴らしさを本当に理解するならば、私たちに残された選択肢は感謝の気持ちを持って受け入れることだけなのです。私たちが救われるのは、この恵みのおかげです。

救いとは新しく造られた者となること

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

(第二コリント人への手紙5章17節)

イエスを信じると、私たちの古い罪の性質が取り除かれ、新しい性質が与えられます。古い性質とは、アダムとエバから始まったもので、神様よりも自分を喜ばせる自己中心的な欲望によってコントロールされ、自分の上に立つ権威(神様)を嫌う性質です。古い性質自体は「的外れ」ですから、神様に従うことができません。しかし新しくされた者はイエス・キリストによって神様との関係を持っているので、神様を敬い、神様との歩む中に真の喜びを見つけだすことが出来るのです。神様は私たちに、人生の新たな目的と共に新しい性質を与えてくださいます。そして新しく造られた人は本来意図された姿で神様や他の人々に仕えることができるのです。

救いとは神様と「再会」すること

人間は神様と共に生きる存在として造られたにも関わらず、神様の存在さえも知らずに生きています。私たちが神様を知らない状態なので、まず神様ご自身がイエス・キリストを通して、私たちの前に救いを提供してくださり、神様との再会を可能にしてくださいました。それは神様の私たちに対する計り知れない大きな愛に基づいています。

聖書が語る神様の存在、人間としての存在の意味、イエスの十字架とよみがえり、罪の赦し、神様がイエスを通して与えて下さる永遠のいのちは全て救いの恵みです。その恵みはどこから来るのでしょうか。それは私たちが神様のもとに戻ったときに与えられるものです。私たちが神様を見つけたのではなく、神様側からのご計画により、世の始まりから私たちを個人的に知っておられた神様との再会により、私たちは救われるのです。